考える=懐疑的精神
7月18日に、泉谷閑示さんが仙台にいらっしゃって講演会をされると聞いて、
本屋さんで著書の「反教育論〜猿の思考から超猿の思考へ」を
買って読んでみました。
P.44 より
「なぜ自分は生きるのか、なぜ自殺してはならないのか、
なぜ親は幸せそうでないのに自分を同じような人生に進ませようとするのか、
なぜ学校に行くべきなのか、
なぜ仕事をしなければならないのか、
生きることの意味はいったい何なのか、
なぜ滅多に幸せそうには見えない結婚というものをした方が良いと言われるのか等々、
湧き上がってくるさまざまな問いは、
問うこと自体がはばかられるような雰囲気によって封じられてしまう。
たとえ思い切ってそれを問うてみても、
これを真っ当に取り合ってくれる人もなくはぐらかされてしまう。
それでもしつこく問い続けた場合には、
「考えすぎ」「理屈っぽい奴」「素直でない奴」として白眼視されてしまうに違いない。
このように、好奇心という思考の重要な基本動機すら、現代にあってはすっかりやっかい者扱いされてしまっているのだ。
幼い子供の発する「なぜ?」「どうして?」という貴重な好奇心の萌芽が、
「なぜ?」を封じて社会適応している大人たちによって摘みとられてしまうと、
子供たちの中で、好奇心の欠如した情報処理能力だけが、
偏って育まれてしまうことになるのだ。」
P.49 より
「若いカウンセラーの指導をしていても、
大学院などで教わった理論や型を
ただ鵜呑みにして、
ずいぶん不自然で窮屈なカウンセリングになってしまっている状態をよく見かける。
なぜそうするのかと質問してみても、
ただ「そう教わったから」と言う。」
P.51
「たとえば、「好き・嫌いなく何でもよく食べる子供に育てましょう」といったスローガンは学校などでかなりおなじみのものであるが、
このような考え方の社会に私たちは育ち、
また、それを疑いもなく次世代へのしつけや教育のポリシーにしてきた。
このような考え方の根本には、
「好き嫌いがあるのは良くないことである」という価値観が横たわっている。
この価値観が、直接的にではないにしろ、
「自分が何がしたいのかわからない」という人間を生み出す精神的土壌になっていることを見落としてはならない。」
P.81
「人は、悪意を向けられた時にそれを拒むことはたやすいが、
善意という形で見当外れのものを押し付けられた場合に、とても困惑するものだ。
「良かれと思って」という善意の押し売りが、
人間のおびただしい不幸のかなりの根本原因になっていることについて、
道徳的に《善なる人間》はあまりに無神経であることが多い。
たとえば、大震災後に駆け付けた多数の「善意」のカウンセラーたちは、
押しかけカウンセリング自体が一部の被災者たちにとってはありがた迷惑でもあったことに思いが及ばなかったらしく、
いくつかの避難所では「心のケアお断り!」という貼り紙が登場する結果となった。
これはカウンセラーとしては、かなり致命的な無神経さであったと言わざるを得ない。
(中略)
このように、殊に道徳というものに対して猜疑心を発動できない《善なる人々》は、
「善」や「正しい」という至上の免罪符に目をくらまされてしまうがために、
「善意」の持つ暴力性について、思いが及ばないのである。
P.156
「最近「マザコン」という言葉を耳にすることがめっきり少なくなった。
(中略)
マザコンという言葉が使われなくなったのは、むしろ「マザコン」がデフォルト(当たり前のこと)になったためなのである。
(中略)
このような状態がデフォルトになってしまった背景には、
母親がパートナーに求めるべき愛情の交流が期待通りに得られなかったり、
自分自身の人生を十分に生きることを中途で諦めてしまったりしたことで、
手っ取り早く自分の《分身》のように思えるわが子に、それらの肩代わりを求めるようになった場合が多い。
(中略)
母子密着状態に疑問を抱くどころかむしろ「自分は良い親である」と思い込み、
親自身の内面的空虚さを埋める代償行為としての「子育て」が正当化されているのである。
そのような親は、子供に
「健全に成長してほしい」と理性では願いながらも、
その「健全さ」から最も大切な「反抗心」「独立心」だけを無意識的に除外する。
真の意味で独立されたのでは、親自身が生きがいや拠り所をうしなってしまうからである。
たとえば、「理解ある親」というポジションを取って「どんなことでも話してね」と言って、
独立の萌芽である秘密の形成を阻害する、
決して自分に反発したり独立していったりするような精神が育たぬよう、
「居心地の良さ」をしつらえることによって、
子供を精神的に「去勢」するのである。」
P.226
「私は精神療法を専門に行っているが、それは、
クライアントによって語られるさまざまな話の《因果関係》を整理し、
たくさんの因果の断片からいかなる《意味》が析出してくるかを、
一種の触媒となって助力する仕事である。
これは別の言い方をすれば、
西洋医学的文脈で、《病気》《障害》《症状》と呼ばれ駆逐すべきと見なされている現象を、
なんからの《意味》を持つものとして解読する作業でもある。
たとえば現代の代表的な病である「うつ病」についても、スタンダードな精神医療は
《セロトニン等の脳内物質のアンバランスが「原因」である》
として、それを調整してくれる抗うつ剤による薬物療法を主たる治療法としている。
これは、還元主義的な研究によって、
《脳内物質のアンバランス》と《うつ症状》の《因果関係》を見つけたことに基盤を置いたアプローチである。
しかし、ここには、
《うつ病》の《意味》を問い、《意味》を読み解く作業がまったく欠如している。
少し詳しくこの問題に立ち入れば、
先天性疾患でもないのに、
なぜある時からそのクライアントに「脳内物質のアンバランス」が生じたのかということ、
それを真の《原因》と呼ぶべきではないのか。
つまり《脳内物質のアンバランス》とは、科学的に把握できた中間現象に過ぎず、
それを《原因》と考えることは適切な思考ではないだろう。
(中略)
「うつ病」は、外傷や感染症とは違って、あくまで本人の内部から生じてくる病態である。
ではなぜ、本人の不利益に見えるような「うつ症状」が本人の内部から生じるのだろうか。
その症状はどのような「意味」を持っているのか。
このような「意味」について丁寧に探求することこそ、
真の治療には欠かせないものである。
実際、精神療法のプロセスの中でクライアントたちには、
それぞれ自らの病の「意味」を見いだす瞬間が訪れる。
その時、クライアントには、
薬物の効果などとは比べ物にならない劇的な変化が起こる。
つまり「意味」の発見こそ、真の治療薬と呼ぶにふさわしいものではないかと私は考えている。
この「うつ病」治療にまつわる話は、
還元主義的アプローチがいかに人間の本質的な問題について
非力であるかの、ほんの一例に過ぎない。」
出産祝いに、しのばせたい一冊です。
泉谷閑示さんサイト→ http://www.izumiya.asia/our_staff.html
7月18日の仙台での講演会については→http://izumiya.seminar.com/
いま、精神科の医師を目指している方、
精神保健福祉士(PSW)の方々や看護師さん、
学校の先生方にも、
ぜひおでかけいただきたい講演会です。
ご縁のあるみなさまに、つながりますように♪♪♪
本屋さんで著書の「反教育論〜猿の思考から超猿の思考へ」を
買って読んでみました。
P.44 より
「なぜ自分は生きるのか、なぜ自殺してはならないのか、
なぜ親は幸せそうでないのに自分を同じような人生に進ませようとするのか、
なぜ学校に行くべきなのか、
なぜ仕事をしなければならないのか、
生きることの意味はいったい何なのか、
なぜ滅多に幸せそうには見えない結婚というものをした方が良いと言われるのか等々、
湧き上がってくるさまざまな問いは、
問うこと自体がはばかられるような雰囲気によって封じられてしまう。
たとえ思い切ってそれを問うてみても、
これを真っ当に取り合ってくれる人もなくはぐらかされてしまう。
それでもしつこく問い続けた場合には、
「考えすぎ」「理屈っぽい奴」「素直でない奴」として白眼視されてしまうに違いない。
このように、好奇心という思考の重要な基本動機すら、現代にあってはすっかりやっかい者扱いされてしまっているのだ。
幼い子供の発する「なぜ?」「どうして?」という貴重な好奇心の萌芽が、
「なぜ?」を封じて社会適応している大人たちによって摘みとられてしまうと、
子供たちの中で、好奇心の欠如した情報処理能力だけが、
偏って育まれてしまうことになるのだ。」
P.49 より
「若いカウンセラーの指導をしていても、
大学院などで教わった理論や型を
ただ鵜呑みにして、
ずいぶん不自然で窮屈なカウンセリングになってしまっている状態をよく見かける。
なぜそうするのかと質問してみても、
ただ「そう教わったから」と言う。」
P.51
「たとえば、「好き・嫌いなく何でもよく食べる子供に育てましょう」といったスローガンは学校などでかなりおなじみのものであるが、
このような考え方の社会に私たちは育ち、
また、それを疑いもなく次世代へのしつけや教育のポリシーにしてきた。
このような考え方の根本には、
「好き嫌いがあるのは良くないことである」という価値観が横たわっている。
この価値観が、直接的にではないにしろ、
「自分が何がしたいのかわからない」という人間を生み出す精神的土壌になっていることを見落としてはならない。」
P.81
「人は、悪意を向けられた時にそれを拒むことはたやすいが、
善意という形で見当外れのものを押し付けられた場合に、とても困惑するものだ。
「良かれと思って」という善意の押し売りが、
人間のおびただしい不幸のかなりの根本原因になっていることについて、
道徳的に《善なる人間》はあまりに無神経であることが多い。
たとえば、大震災後に駆け付けた多数の「善意」のカウンセラーたちは、
押しかけカウンセリング自体が一部の被災者たちにとってはありがた迷惑でもあったことに思いが及ばなかったらしく、
いくつかの避難所では「心のケアお断り!」という貼り紙が登場する結果となった。
これはカウンセラーとしては、かなり致命的な無神経さであったと言わざるを得ない。
(中略)
このように、殊に道徳というものに対して猜疑心を発動できない《善なる人々》は、
「善」や「正しい」という至上の免罪符に目をくらまされてしまうがために、
「善意」の持つ暴力性について、思いが及ばないのである。
P.156
「最近「マザコン」という言葉を耳にすることがめっきり少なくなった。
(中略)
マザコンという言葉が使われなくなったのは、むしろ「マザコン」がデフォルト(当たり前のこと)になったためなのである。
(中略)
このような状態がデフォルトになってしまった背景には、
母親がパートナーに求めるべき愛情の交流が期待通りに得られなかったり、
自分自身の人生を十分に生きることを中途で諦めてしまったりしたことで、
手っ取り早く自分の《分身》のように思えるわが子に、それらの肩代わりを求めるようになった場合が多い。
(中略)
母子密着状態に疑問を抱くどころかむしろ「自分は良い親である」と思い込み、
親自身の内面的空虚さを埋める代償行為としての「子育て」が正当化されているのである。
そのような親は、子供に
「健全に成長してほしい」と理性では願いながらも、
その「健全さ」から最も大切な「反抗心」「独立心」だけを無意識的に除外する。
真の意味で独立されたのでは、親自身が生きがいや拠り所をうしなってしまうからである。
たとえば、「理解ある親」というポジションを取って「どんなことでも話してね」と言って、
独立の萌芽である秘密の形成を阻害する、
決して自分に反発したり独立していったりするような精神が育たぬよう、
「居心地の良さ」をしつらえることによって、
子供を精神的に「去勢」するのである。」
P.226
「私は精神療法を専門に行っているが、それは、
クライアントによって語られるさまざまな話の《因果関係》を整理し、
たくさんの因果の断片からいかなる《意味》が析出してくるかを、
一種の触媒となって助力する仕事である。
これは別の言い方をすれば、
西洋医学的文脈で、《病気》《障害》《症状》と呼ばれ駆逐すべきと見なされている現象を、
なんからの《意味》を持つものとして解読する作業でもある。
たとえば現代の代表的な病である「うつ病」についても、スタンダードな精神医療は
《セロトニン等の脳内物質のアンバランスが「原因」である》
として、それを調整してくれる抗うつ剤による薬物療法を主たる治療法としている。
これは、還元主義的な研究によって、
《脳内物質のアンバランス》と《うつ症状》の《因果関係》を見つけたことに基盤を置いたアプローチである。
しかし、ここには、
《うつ病》の《意味》を問い、《意味》を読み解く作業がまったく欠如している。
少し詳しくこの問題に立ち入れば、
先天性疾患でもないのに、
なぜある時からそのクライアントに「脳内物質のアンバランス」が生じたのかということ、
それを真の《原因》と呼ぶべきではないのか。
つまり《脳内物質のアンバランス》とは、科学的に把握できた中間現象に過ぎず、
それを《原因》と考えることは適切な思考ではないだろう。
(中略)
「うつ病」は、外傷や感染症とは違って、あくまで本人の内部から生じてくる病態である。
ではなぜ、本人の不利益に見えるような「うつ症状」が本人の内部から生じるのだろうか。
その症状はどのような「意味」を持っているのか。
このような「意味」について丁寧に探求することこそ、
真の治療には欠かせないものである。
実際、精神療法のプロセスの中でクライアントたちには、
それぞれ自らの病の「意味」を見いだす瞬間が訪れる。
その時、クライアントには、
薬物の効果などとは比べ物にならない劇的な変化が起こる。
つまり「意味」の発見こそ、真の治療薬と呼ぶにふさわしいものではないかと私は考えている。
この「うつ病」治療にまつわる話は、
還元主義的アプローチがいかに人間の本質的な問題について
非力であるかの、ほんの一例に過ぎない。」
出産祝いに、しのばせたい一冊です。
泉谷閑示さんサイト→ http://www.izumiya.asia/our_staff.html
7月18日の仙台での講演会については→http://izumiya.seminar.com/
いま、精神科の医師を目指している方、
精神保健福祉士(PSW)の方々や看護師さん、
学校の先生方にも、
ぜひおでかけいただきたい講演会です。
ご縁のあるみなさまに、つながりますように♪♪♪
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