以前にも書いていた
仙台市の取り組み【(仮称)仙台市いじめの防止等に関する条例】の
骨子案の冊子を
青葉区役所の総合案内所で
いただいてきまして
読んでいるところです。
こういう役所的な書類は苦手なのですが
そういう役所的な書類にしては
読みやすく工夫をしてくださっているのが
伝わります。
全体的な違和感としては
道徳教育でなんとかしようとしている雰囲気が感じられ、
それが、
日々、勉強や部活、塾や習い事や人間関係などでストレスフルなところに
新たな抑圧となり
嫌がらせ行為が陰湿化するのではないかという危惧を抱きました。
「仙台市いじめ問題専門委員会」には
医療の専門家が入ってくるそうで、
子どもたちが簡単に精神医療につながれたり、レッテル病名をつけられ、
不必要な投薬をされるのではないかという危惧を抱きました。
あちこち気になるところがありますが、
きっとお役所の方々も、さまざま考えてくださっているのだと思いました。
道徳で、いじめはなくなる?
道徳って何?
道徳は欺徳である、という名言は
とらこさんから。
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抜粋→ 欺徳── 見せかけの道徳
さて自我は真我の命である愛することを否定し、自己を愛することをしないことで生じるといいました。
すなわち真我という自己を愛さないことで生じるわけですが、
自我にも自己はあります。
何を言いたいかおわかりかと思いますが、
自己否定は何も真我の否定だけではないということです。自我の自己否定もあるのです。
それは自我という欲の否定にほかなりません。
そして、それこそが道徳の本質なのです。
愛される価値がないと思った自我は、愛される価値ある存在になるために頑張ります。
否定された自己は怒ります。相手を否定したくなります。相手を傷つけたくなります。
自分と同じ傷を負わせたいと思います。
それが自我です。
しかし「怒ってはいけない」「人を傷つけてはいけない」「にこにこしていなければならない」「愛でもって受け入れなければならない」
などと道徳を押し付けられるので、
その怒りたい欲望や怒りの感情を抑圧して善い人、人格者を演じてしまうのです。
怒りたいという自我や怒りの感情が抑圧され、
その自我から別の自我の流れが生じます。
すなわち、善人でなければならないという価値観よって偏向されたもう一つの自我が誕生します。
二重自我と言ったらよいでしょうか。
二重自我は二重自己否定です。
自己否定の自己否定です。
夢の中の夢です。
これが自己免疫不全や癌の原因と密接に関係しています。すなわち、これらの疾患は、自己の抑圧によるアイデンティティの喪失によるものなのです。
道徳は一見いかにも人間本来の命を生きることを可能にさせているかのように見えますが、それは否定の否定によって無理やりそのように見せかけているだけです。
だから荘子は、「善への迷い」と看破し、「欺徳」であると断言するのです。
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以上、抜粋でした。(由井寅子さんの著書より)
このあと、道徳によってさまざまなことを否定したために、
悪魔的なものが浮上して、それを見なくてはならなくなると書かれています。
話は戻って、
先生方の長時間労働や
休みがきちんととれるか、も
いじめ問題とつながっていると思います。先生方の心と体の余裕が大切です。
また、地域行事への参加を強制しそうな(積極的に参加という表現でしたが)表現もありましたが、
エンパス(共感性の高い)気質や、HSP(敏感な気質)な子どもたち(子どもの場合HSCという。病気や障害ではなく気質であり才能。)は、
そのような行事が苦手なこともあり、
そういった行事への参加を強制するのは
いじめ、になる可能性もあると思います。
HSCチェック→ http://hspjk.life.coocan.jp/selftest-hsc.html
長くなりました。
写真下は、加藤諦三さんの本【いじめに負けない心理学】。
http://www.katotaizo.com/books/worry8
アマゾンでの皆さんのレビューが参考になります。
持っていなかったので、買って、
仙台市子供未来局いじめ対策推進室さんに送ろうかな。
もうお持ちかもしれませんが。
総括すると、
道徳をゴリ押し?と心配。
道徳を教科にした意味をつけたいのかな。と。
大人の宿題、ぜひみなさんも。
意見の提出の締め切りは今月末。
【仙台市いじめの防止等に関する条例 骨子案】は、近くの役所や、仙台市のホームページにもあるそうです。
いじめの防止等、等? 等が付く意味は?
最後にまた宿題増えた。