カフェモンサンルー

2014/10/11

愛されている確信

お客様に以前いただいた本、龍村仁さんの【地球(ガイア)をつつむ風のように】をまた読んでいました。
《地球交響曲第2番》を撮影するために訪れたインド北部のチベット亡命政府が置かれているダラムサラでのこと。
そこにはチベットで親を殺されたり、投獄されたりして孤児となり、
親戚や僧侶たちに連れられて極寒のヒマラヤを命懸けで亡命してきた子どもたちが暮らす「チベット子ども村」という学校兼寄宿施設があるそうです。
そこでのお正月には、世界各国から寄せられた衣類や文房具、おもちゃなどが詰められている袋を一人一袋お年玉として配られるのだそう。
そのときのエピソード。
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しばらく自分のお年玉に夢中になっていた子どもたちが、今度は他の子のお年玉に興味を示し始め、
あちこちで互いに見せ合ったり、交換する騒ぎが始まった。
その情景があまりに微笑ましかったので、私と赤い僧衣に身を包んだ校長先生とは思わず顔を見合わせて笑った。
その時、突然部屋の片隅で三歳くらいの男の子が大声を上げて泣きはじめた。
お年玉を貸す、貸さないでケンカが始まり、年上の子におもちゃを奪われたのだ。
私は校長先生が当然年上の子を叱り、おもちゃを返すよう命ずるだろうと思った。
ところが、校長先生はニコニコと微笑んだまま何も言葉を発せず、
まず泣いている小さい子の側に近寄り、子どもと同じ高さにまでしゃがみこんで顔をその子の頬にくっつけたのだ。
ホッペをくっつけられたその子は、最初チョットくすぐったそうにしたが、気持ちがいいんだろう、
泣きながらもしだいに校長先生の頬に自分から顔を寄せていった。
しばらくそのまま泣きつづけ、少し収まったとき、校長先生は初めて頬を離し、その子の耳元に口を寄せて、一言二言何かをささやいた。
するとその子は突然、泣きじゃくりながらもケラケラ笑いはじめたのだ。
その様子を見ていたおもちゃを奪った年上の子が近づいてきて、無言でおもちゃを差し出した。
校長先生は初めて年上の子のほうを向いて微笑みながら何か言葉をかけ、
あいている一方の腕にその子を抱き寄せた。
その後しばらく二人は、校長先生の腕の中で笑いながらふざけあっていた。
時間にしてわずか1〜2分の出来事だった。
その時、私は「この子たちは、自分が愛されているということを確信している」と思った。
「自分は愛されている」という確信が、このチベット子ども村の子どもたちのあの表情の豊かさや瞳の輝きを生んでいるのだ。
ここの子どもたちにとってお父さんに当たる校長先生をはじめとする僧たちは、百人に1人くらいしかいない。
お母さんにあたる保母さんだって20人に1人ぐらいだ。
一人の子どもにとって自分の「お父さん」「お母さん」に触れることのできる時間は、一日のうちほんのわずかだ。
しかし、そのほんのわずかな時間の中で子どもたちは「自分が愛されている」ことを確認している。
その「愛されている」という確信があるから「恐れ」から解き放たれ喜怒哀楽を奔放に表現することができる。
つらい体験を忘れることはできなくても、自分の中で制御し、よい方向に転化できるようになる。
子どもたちが「愛されている」と確信するのは、親とつきあう時間の長さではない。
まして与えられる物の多さや言葉の量ではない。
チベット仏教の高僧である校長が示したように、
「親」としての慈愛が一瞬の身体全体の振る舞いとして示されたとき、
たとえ一日数分のふれあいでも、百人が共有する「父」であっても、
子どもたちは「愛されている」と確信できるのだ。
「よき家庭」とは、そんな親子関係のことをいうのだろう。
(P.110から112まで抜粋)
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校長先生が、ケンカをしていた子どもたちを慈しみとユーモアをもってとりなすシーンは、
何回読んでも泣けるのでした。
こういった「本当の大人」に囲まれて成長してゆくことは
なんてすばらしいのだろうと思います。決して羨ましがってはいけないのかもしれないけれど、羨ましく思います。
校長先生のようには出来ませんけれども、悲しんだり怒っている子どもがいるとき、
その悲しみや怒りを抑圧させるのではなく、寄り添い共感し、ときには待つこともできる器を
親として大人として持ちたいなあと思います。
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